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執筆者の写真新谷 恭明

年輪

 今年、たぶん、69歳になる。この年齢にかなりの驚きがある。というのはついこの間、還暦云々で大騒ぎしていたことを思い出すからだ。1951年生まれなので、還暦は2011年だった。つまり、東日本大震災の年だ。高校の同期会を確か夏に函館でやった。1年先輩の7期の方々は還暦同期会を3月にやるはずだったのだが、震災で延期になり、僕らより後に還暦パーティをやったらしい。そんなのがついこの間だった気がするのだが、このところ時のたつのが早い。

 今日、民生委員をしているカミさん(元市議)が報告するには、市の職員との懇親会みたいなのがあったらしくて、そのとき50歳と自称する職員が「自分はQ大教育学部卒で新谷センセは覚えていないと思うけど、センセの講義を聴いた。」と言ってきたという。イケメンで50歳には見えない若々しさがあり、油の乗りきった感じがしたという。あっ、彼だろうと思い出したが、画数の多い名前だったということを思い出したし、住んでいるあたりも思い出した。

 で、カミさんが「Tさんというんだけど、知ってる?」と聞く。もちろん知っているし、その名前を思い出した。ついこの間、市民体育館で会ったなという記憶があったが、振り返ればどうやら四半世紀以上昔のことだったらしい。そのときに何回か話をした記憶はあるし、その頃PTA会長とかしていたので、よく市役所に行ってた。そしたらよく知っている職員が彼のことを「非常に優秀な若者」と評していた。なにしろ時代も変わり、Q大出が市役所の職員に来る時代になったと言っていた。いや、実はその頃、同じ教育学部から市役所を浮けて落ち、大学院に進学した女子学生もいた。この地方都市もけっこう入職するのは難しくなったんだな、と感じた記憶がある。その新人がちょっと目を離している間に停年が現実味を帯びる50歳になっているとは感慨深かった。

 同じようなことは教組のセミナーでも体験した。昨年の夏だったか。セミナーの参加名簿を見た時に非常に懐かしい名前をみつけた。Hくんだ。彼の父親は熊本の大学の教員で、人権関係の大御所であったのだが、そのご子息がQ大の大学院生だった。文学部の某助教授の研究室にゐた筈だ。その某助教授は僕と同じ歳で、後に転出したのだが、その某助教授と知り合ったのは新たな大学院を作ろうかという大学改組の過程であった。なので、最近のことのような印象があった。ちちうえ

 うん、そう言えば昨年の3月にHくんのお父上の訃報が福岡県人権研究所に入り、そのときHくんのことを思い出し、理事長として弔電を打った。その際、Hくんが機関誌に寄稿していたことを確認したばかりだった。なんとその機関誌は人権研究所の前身の部落史研究会時代のもので20年以上昔のことだった。

 Hくんも50歳になると言ってたし、Tくんも50歳だと言ってたそうだ。20代から50歳になる間にその人間の人生が詰まっている。会社員なら20代はペーペーで、50歳には会社の中でのゴールが見えているだろう。僕自身も20代は大学院生で50歳の時は肩書きは教授。いろんな役職が廻ってくる地位にあり、ま、大学内での自分の終わり方がだいたい見えるようになっていた。研究面でもほぼ自分の区切りは見えるようになっていた。

 思えば、48歳か49歳の時だったと思うが、高校の同期会を函館でやった。集まったのはバリバリの脂の乗りきった現役だった。二次会の席でいちばん遠くから来たからというので一言求められ、「人生を振り返る年じゃない。もうこんな過去を振り返るような会には来ないぞ!」などと豪語したが、ほどなく還暦の会がやってきた。ほぼ10年後にはみんな好々爺になっており、その頃からは同窓会やら同期会やらに頻繁に顔を出すようになっていた。いや、頻繁といっても何年も行ってなかったりするが、SNSの時代なので情報交換はかなり濃密になっている。

 つまり、50歳以降は老後とはいわないが、自分の人生はほぼ終盤を迎えているということだ。人間は20代から50歳くらいまでが人生のおもしろいところなのだろう。もちろん50歳を過ぎていろいろドラマはあったが、それは波瀾万丈(かどうかはともかく攻めている姿勢)の人生がとりあえず一段落し、自分の到達点は確保して上での〆の段階なのだろう。

 で、自分が50歳の頃の立ち位置を振り返りつつ、TくんやHくんのことを考えると彼らもおそらくそれぞれの職場で地位を固め、定年までの見通しが立つような年頃になったということだ。教員として若者がとりあえずは職をまっとうしつつあるところまでを傍観してしまったわけで、なんとなく「人生は短い」なんて思ってしまうのであった。

 


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