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執筆者の写真新谷 恭明

学者の妻

 去る2月9日(火)の朝日新聞に「ひととき70年 反響編」という記事が載っていた。「ひととき」欄についての思い出を取り上げたものだが、最初に紹介している森本貞子という女性が気になって調べてみた。

 1953年1月18日の朝日新聞に「学者の妻」という記事が載った。その年の朝日賞の贈呈式が1月13日にあり、大阪大学医学部の黒津敏行教授が最後に語ったのは「私の研究生活二十年、この間研究室のみが私の住居であった。招待状を拝見するまでは、ただそれでよかったし、そのまま通してゆく生活であった。それが〝令夫人同道〟という言葉にぶつかって私はびっくりした。思えば二十年、いまは子供もおります。しかし、戦争中のあの苦労、戦後のあの不自由、それらすべてを私は、私の身近なものにまかせきっておったのです。私は令夫人同道と読んでガクゼンとしました。ああ、すまなかった、そうでした。私は・・・・」と語ったというのである。どうやらこの授章式への同道の旅は結婚後初めての夫婦での旅行であったとか。

 この発言に会場はシンとなったのだそうだが、「第三者の感想」として3つほどの意見も載っていた。

 そうしたところ、「ひととき」欄に二十通あまりの投書があったというので2月1日付の家庭欄に「反響呼んだ〝学者の妻〟という特集記事が出たのである。そこに次のような投稿をしていたのが森本貞子さんである。

「戦中戦後は実に苦難の生活だったが、初句かやっと安定して、夫も〝家庭とともにある研究〟を考える余裕が出て来た。日本の国家予算はアメリカの十六分の一なのに科学研究費は四十分の一だという。学者も家庭も苦しまなくては成果が上がらぬという一般の観念は、社会がもっと科学者に関心を持ってくれれば変るのではないか」

 で、最初の記事によると森本さんは当時27歳であったという。その視点の鋭さに関心を抱いた学芸部デスクの影山三郎氏が彼女を訪ね、「家庭欄に折々の暮らしのコツを書いてほしい」と依頼したそうな。

 彼女は函館生まれで、18歳で結婚云々とある。夫は後に東京大学地震研究所の所長になる地震学者なのだが、貞子さんは55歳の時に地震学者の妻を描いた『女の海嘯 トネ・ミルンの青春』を出版している。で、入手したのが『秋霖譜 森有礼とその妻』(東京書籍)である。〔『女の海嘯』も、島崎藤村の妻を描いた『冬の家』ももうじき届く予定〕

 森有礼の最初の妻、広瀬常については、植松三十里 『辛夷開花』(文藝春秋)がおもしろかったが、それよりおもしろそうだし、何より史実の掘り起こしがすごい。朝早く目が覚めてしまったので読み始めたが、引き込まれる筆力がある。2003年の刊行なので、著者78歳の作品だ。それも恐れ入る。


 ということで、「学者の妻」だが、その年には黒津敏行教授の妻をモデルにした映画化が企画された旨、報じられた。そして、1959年に「学者の妻苦闘の一生」という考古学者鳥居竜蔵の妻、鳥居キミさんの死を報じた記事を最後に朝日新聞では扱われなくなる。

 しかし、「妻」とは何かという歴史的な課題はある。「妻」とは何であり、どうあり続けてきたのか。森本貞子さんは「妻」にこだわりを持っていたようだ。

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