いろいろ細かい書き物が要求されていて、にもかかわらずなかなか手つかずながら今日もボッとして過ごしている。とりあえず、年休の残りを費消して休呆堂にでも引き籠もっている方が社会的にはまっとうなあり方かもしれないのだが、出勤して研究室で黙々と時間を浪費している。今嵌まりつつあるE.M. シオランに言わせれば、そのような怠惰はもっとも高貴なものらしい。
出勤していれば教職課程担当者としてちょっとした仕事は出てくる。出てきたので、来た甲斐もあった。県からも電話があった。尤も携帯電話にかかってきたので、どこでも受けられたのではあるが、研究室で受信したことで仕事をしたような気になっている。
先日書き送った原稿の内校が送られてきた。「あたら中井法運動」などと意味のわからないことを書いてしまっていたが、内校者は「新たな解放運動」と正しく手直ししてくださった。感謝しかない。
今、書かなければならない原稿はとある学会のラウンドテーブル用のものと、とある政治団体にかかわるもの、それと新学期の講義資料とオリエンテーション資料なのだが、微妙に時間的余裕を残しているのが、先週までと比しての奇跡的なところだ。これとて今日の躓きは明日の渋滞になりかねないので安心は出来ないのだが、「明日出来ることは今日するな」の謂いもあって、現在を堪能している。
とりあえず中島徳蔵が昭和3年10月17日午後2時より行った講演録を読み込んでみた。中島はあの哲学館事件の当事者である。その危うい自己表現は変わっていない。まず中島は「
元来思想には真偽といふ二つの性質があります。・・・中略・・・其の思想を意志に応用して、之を或る目的の手段として用ふる時に於て、初めて其の意志に善とか悪とかいふ性質が生ずる」、つまり、思想に善悪はない、それは使う人間次第なのだと言う。資本主義が進み貧富の差が生じるのは良くない。その点では中島は「私は共産主義の人と考を同じくして居る」と言ってしまう。
しかし、「社会制度と個人の精神との関係、即ち如何なる制度が宜いのか或は悪いのか、制度の価値を個人の精神と切離して考へる事が誤りの根本で、『心即道』で、心は良心と言つても宜い」として、たとえば「忠孝の道」というような精神があって、社会制度は社会制度たり得ると中島は切り抜けた。
そして中島は活動主義なるものを説く。それは「自分の行為以外の責任を負ふ事はない」というもので、「何か罪を犯したと新聞に出された人がある。其の子供が学校に来ると、子供に何の罪もないのに石を投げ或は後ろ指をさす。罪人の子供を指して嘲笑し卑しめるやうな残酷な事を許すのが危険思想であります」と本人に罪のないことで子供を貶めてはならないと警告し、「故に学校に於て斯る空気を作るより仕方がない、家庭に於ては固よりであります」と道徳教育の基盤として学校、そして家庭を重視する。
こうした中島徳蔵の講演のあと質疑応答がなされた。それがなかなかおもしろい。
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