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執筆者の写真新谷 恭明

フレイレから

 フレイレの『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳 亜紀書房)の勉強会を若い人たちとしつつ、「教育原理」でも一部を抜粋して講じたりしている。そうすると非常に現代の教育を見ていくのに重要な視点がそこには見られる。

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 マージナルな状態にされ、見放された人たちは、いつも「蚊帳の外」に置かれたり、「さらにマージナルに」されたりしている。それではこういう人たちはどうしていけばよいのかというと、健康な社会と「統合し」、「一体化していく」、という解決があるはずである。もともとは自分たちがそこにいて、幸せに暮らしていたはずの健康な社会の一員になることが解決である。

 つまり、解決とは「蚊帳の外」にいるような状況を出て、自らが社会の一員となることが解決となる。

 ところが、実際のところ、マージナライズされ、見放されている人たち、つまり抑圧されている人たちそのものは、実際にはこの社会の「蚊帳の外」にいられるはずもない。実際には、いつだって「内側」にいたのである。だからこそ、本当の解決とは、その社会構造に「統合」されたり、「一体化」されたりしていくことなのではなく、抑圧を生み出すその構造そのものを変革し、「自らのための存在」というものをつくり出していくしかないのである。                               (136ー137頁)

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 ここでは「マージナル」という言葉が出てくる。フレイレは「マージナル・マンとは、社会制度から排除され、はじき出された結果の産物ということになり、まさしく暴力の客体以外のなにものでもない」(『自由のための文化行動』)と説明する。「マージナル・マン」という言葉は確か大学院修士の入試に出たと記憶している。まあ、それはいい。

 それで、教育原理の学生には「学校の中にいるマージナルな存在とは誰だろう」という問いを出し、ワークシートに書いてもらった。中には「校長先生。みんなから遠ざけられているから」というのもあった。まだ大人の世界を知らない。その分析はしてもしょうがない。

 それはともかく、マージナルな人というのは此処では居心地が悪く、「蚊帳の外」に置かれている人たちである。此処とは学校ならば教室だろう。教室には教師は生徒がいる。この教室で居心地が悪く、此処にいても仲間になりきれていないのは誰だろうか。文字通り仲間はずれにされている子、勉強についていけない子、運動ができない子、社会的差別の状態にある子、外国につながる子、障害を持っている子、家庭に課題のある子…さまざまである。もしかすると特定の理由はないのかもしれない。

 これらの子どもたちは本来此処(教室)にいていい子どもたちである。その子たちがスムーズに此処(教室)の一員に戻ることができれば問題は解決する。言うまでもなく、マージナルな子どもたちは社会構造的(社会のしくみの中では)には抑圧されている子どもたちなのである。その子たちが此処(教室)に戻るためは此処にもう一度入れてもらうのではなく此処(教室)の中の抑圧ー被抑圧のしくみをつくり変え、マージナルな子どもにとって居心地のいい教室に変えていくしかないのである。

 たとえばいじめがあったとする。AさんがBさんにいじめられていた。もしくはBさんとその仲間たちにいじめられていた。それを許容しているのは教室内の教師を含むすべての人間であり、その教室を含み込んでいる学校全体であるかもしれない。Bさんに謝罪させたところで、AさんとBさんとの関係を修復しようとしたところで、問題は解決しない。Aさんはもとより此処(教室)にいた人であり、いるべき人である。だからAさんを此処(教室)に溶け込ませるのではなく、Aさんのための此処(教室)に造り変えなくてはならないのである。

 マージナルな子どもというのはいじめの問題だけではない。また、物理的に此処(教室)にいるかいないかの問題でもなく、その子がどういう扱いを受けているかということである。

 教育はマージナルな子どもを此処(教室)に戻す営みとなる。それはその子に努力を強いて戻すのではなく、此処(教室)がその子に居場所を与えられるように変えられなくてはならない。その仕事が教師の仕事である。



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