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執筆者の写真新谷 恭明

保守本流が懐かしい

更新日:2022年10月26日

 去る8月28日(日)に第30回宗像地区「同和」教育研究集会を開催した。主催者挨拶を実行委員長の僕がやった。例年、あらかじめ『開催要項』に掲載しておいた挨拶を読み上げることで参加者に僕の言いたいことを持ち帰ってもらうことにしていた。


 ところが、原稿を提出したところで、実行委員から「よく意味がわからないところがあるので、説明してほしい」という要望があった。長くなるけれど、まずはその挨拶文を紹介しよう。

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 戦争は最大の人権侵害であると言います。そして、その戦争がウクライナへのロシアの侵攻という形で始まってしまいました。とはいえ、私たちにとっては対岸の火事なのでしょうか。もしかすると、外国での戦争を私たちはリアリティを以て受け止めてはいないのかもしれません。たとえば、2003年に始まったイラク戦争は2011年にオバマ大統領が終結宣言を出すまで続いていたと言われますが、私たちの意識からは遠のいていたように思います。しかし、中東ではずっと戦火は絶えていませんし、その戦争を平和教育の教材にした話も聞いていません。

 ウクライナへの同情は集まっていますが、国のために戦うことを強いられたウクライナ国民の人権について考えることは、日本国憲法の下で長い間戦争をしてこなかった私たち日本国民には難しいことのように思えます。しかし、かつて日本国憲法制定をめぐる議論の中で、戦争には「二つの種類の戦争がある。一つは……他国征服、侵略の戦争である。これは正しくない。同時に侵略された国が自国を護る為めの戦争は、我々は正しい戦争と言って差し支へないと思ふ」と言い、「正しい戦争」をも否定する日本国憲法に反対した議員たちがいました。しかし、その意見に対して、当時の吉田茂首相は「斯くのごときこと(正しい戦争)を認むることが有害であると思ふ」として反論しています(『帝国憲法改正審議録』)。日本国憲法はそうやって作られました。だから、国家のために人権を放棄するという選択肢はこの国にはないのです。

 現在、さまざまなかたちで人権という理念を揺るがそうとする動きが国の内外を問わず起きています。日本という国家の基本的あり方としてきた「正しい戦争というようなものは認めない」という基本的考えは今だからこそ重要なのではないでしょうか。その視点に立って、私たちは今、あらゆる人権侵害をなくしていく教育を構築していかなければならないところに来ています。それは「人間の解放」をめざした全国水平社が戦争に直面したとき「人間解放」より「戦争協力」を選択してしまったことの反省に立つことで戦後の解放運動を再開した精神に学ぶことでもあります。

 今年は全国水平社創立百周年の年です。ただ百周年を記念の年とするのではなく、100年の間に私たちの先達は何と闘い、挫折し、何を学んできたのか、あらためて次の時代をどう切り開いていくのか、そうした原点を振り返りつつ新たな人権・「同和」教育に挑戦していくべきではないでしょうか。

 この国の教育は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法)を子どもたちに育むことを目的としています。これは「憲法が国民に保障する基本的人権」を前提に考えられている目的です。言い換えれば、人権教育・「同和」教育の延長線上にすべての教育実践があるべきなのです。私たちの日々の教育実践が人格の完成を目指すものになっているのか、そして平和で民主的な国や社会の一員となるべく計画しているのか。今日の研究集会を機に考え直してみることができれば、これ以上嬉しいことはございません。

 本日の第30回宗像地区「同和」教育研究集会は福津市、宗像市及び多くの後援団体の支援を受けて開催の運びとなりました。支援していただいたみなさまに衷心より感謝の意を表し、主催者の挨拶とさせていただきます。

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 まずは、ウクライナへのロシアの侵攻が始まったことから始めた。日本の平和教育は日本の過去の体験(77年から90年前の歴史になっている)から学ばせようとしてきた。それはいい。しかし、その体験と現実の戦争とが結びついているかというとそこは疑問だ。ウクライナはメディアがさかんに喧伝したので注目したのだが、イラク戦争はどうだろうか。中東の紛争はいつのまにか忘れているし、9.11以後のアメリカのアフガニスタン空爆なんかも平和教育ではどう扱われたのだろう。ウクライナだって徐々にメディアでの扱い量は減ってきている。

 そのウクライナもロシア対ウクライナ戦の観戦みたいになってきて、「ウクライナがんばれ!」みたいな空気が感じられる。しかし、国外退去を禁ぜられ、祖国防衛のためにロシア軍に武器を向けることを義務付けられたウクライナの男子の人権についてはあまり語られない。僕の高校時代の友人は大学の同窓会の席で「ロシア人もウクライナ人も死んで欲しくない」と発言したら、顰蹙を買ってしまったとぼやいていた。別の社会運動に関わっている友人に問うたら、「若しロシアが攻めてきたら、義勇兵として戦う」などと勇ましいことを言っていた。

 で、気になって日本国憲法制定当時の議論を読み返してみた。そうして、日本共産党が「戦争には他国を侵略する正しくない戦争と国の侵略から国を護る正しい戦争がある。正しい戦争まで否定する憲法草案には反対だ」と明言した。それに対して吉田茂首相はどの戦争も「防衛のための正しい戦争だと言って始める。だからあらゆる戦争を放棄しなければならないのだ」と言い放った。

 そして全国水平社は「正しい戦争」に協力したという選択をしてしまった。そういうことの反省から戦後の解放運動は始まっている。

 ま、そういうことを実行委員会では説明してみんなの理解を得た。

 で、本番に際して、もう少していねいに説明しないと聴衆には伝わらないかもしれないと思って、当日話す内容を練り直した。『開催要項』に載せた挨拶文の趣旨に沿ってちょいと余計なことを書き加えてみたのだ。これを当日は読み上げた。それがこちら。

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 戦争は最大の人権侵害であると言います。それは「人命は地球より重たい」と言った福田赳夫元首相の言葉とも重なります。そして、その戦争がウクライナへのロシアの侵攻という形で始まってしまいました。とはいえ、私たちにとっては対岸の火事なのでしょうか。もしかすると、外国での戦争を私たちはリアリティを以て受け止めてはいないのかもしれません。

 たとえば、2003年に始まったイラク戦争は2011年にオバマ大統領が終結宣言を出すまで続いていたと言われますが、私たちの意識からは遠のいていたように思います。しかし、中東ではずっと戦火は絶えていませんし、その戦争を平和教育の教材にした話も聞いていません。

 ウクライナへの同情は集まっていますが、国のために戦うことを強いられたウクライナ国民の人権について考えることは、日本国憲法の下で長い間戦争をしてこなかった私たち日本国民には難しいことのように思えます。

 かつて日本国憲法制定をめぐる議論の中で、戦争には「二つの種類の戦争がある。一つは他の国を征服する侵略の戦争である。これは正しくない。同時に侵略された国が自国を護る為めの戦争は正しい戦争だと言い、新たに作られる日本国憲法が「正しい戦争」をも否定しているから反対だという議員たちがいました。しかし、その意見に対して、当時の吉田茂首相は「満州事変も太平洋戦争も外国から自国を護る正しい戦争だという名目で始めている。だから、こうやって正しい戦争みたいなものを認めること自体が有害なのだ」として反論しました。日本国憲法はそうやって作られました。だから、国家のために人権を放棄するという選択肢はこの国にはないのです。国の為に戦争で死ぬということがあってはいけないというのが、此の国が国民と交わした最も大切な約束なわけです。にもかかわらず、私たちはウクライナの正しい戦争に動揺してはいないでしょうか。

 こんなふうに現在はさまざまなかたちで人権という理念を揺るがそうとする動きが国の内外を問わず起きています。日本という国の基本的あり方としてきた「正しかろうが正しくなかろうが、戦争というようなものは絶対に認めない」という基本的な考えに立ち戻ることは今だからこそ重要なのではないでしょうか。その視点に立って、私たちは今、あらゆる人権侵害をなくしていく教育を構築していかなければならないところに来ています。それは「人間の解放」をめざした全国水平社が戦争に直面したとき「人間解放」より「戦争協力」を選択してしまったことの反省に立つことで戦後の解放運動を再開した精神に学ぶことでもあります。

 今年は全国水平社創立百周年の年です。ただ百周年を記念の年とするのではなく、100年の間に私たちの先達は何と闘い、挫折し、そこから何を学んできたのか、あらためて次の時代をどう切り開いていくのか、そうした原点を振り返りつつ新たな人権・「同和」教育に挑戦していくべきではないでしょうか。

 この国の教育は教員基本法に書いてあるように「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」を子どもたちに育むことを目的としています。これは「憲法が国民に保障する基本的人権」を前提に考えられている目的です。言い換えれば、人権教育・「同和」教育の延長線上にすべての教育実践があるべきなのです。私たちの日々の教育実践が人格の完成を目指すものになっているのか、そして平和で民主的な国や社会の一員となるべく計画しているのか。今日の研究集会を機に考え直してみることができれば、これ以上嬉しいことはございません。

 本日の第30回宗像地区「同和」教育研究集会は福津市、宗像市及び多くの後援団体の支援を受けて開催の運びとなりました。福津市、宗像市にはこの場をお借りして厚く御礼申し上げますと共に、この研究集会の開催を支援していただいたすべてのみなさまに衷心より感謝の意を表し、主催者の挨拶とさせていただきます。

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 まず書き加えたのは、ダッカ事件の時に福田赳夫首相が「人命は地球より重い」と言った言葉だ。日本赤軍に対して毅然とした態度を取らなかったという批判はあったが、一つの見識であった。国家のために国民の命は落とさないということだ。そのことも書き加えた。

 ある時期から此の国は人命よりも大切なものがあるという方向に世論を向けている嫌いがある。人質を救わない、という方針で国民を何人か死なせてしまうようになった。そして、リアルな戦争だ。ウクライナを見せて、「さあキミはどうする?侵略者とは命を賭して戦うだろう」という風潮が出てきた。日本国憲法下でまっとうなことを言ったのは吉田茂であり、福田赳夫であった。彼らがその場の政治的駆け引きや保身でおこなった判断かもしれないが、日本国憲法の原則には従った。今やそうした駆け引きも保身も逆の芽が出ている。国家を優先しなければ政治家として非難されるような気がしているのではないか。吉田茂や福田赳夫がエラかったと言っているのではない。彼らにそう言わせた国民の力がその頃にはあったということだ。

 なんとも、今回は保守系の、そして当時は政権政党の党首の言葉を二つも引用してしまった。皮肉なことではない。今の日本がそういう方向に傾いているということだろう。

 


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