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執筆者の写真新谷 恭明

思考する読み方

 1年生だから、高校を出たばかりなので、まだ高校生の学び方から抜け出ていないと思われる。いわゆる一般教養科目、本学では総合人間科学と呼んでいるが、高校の授業の延長のように学んでいるのだろう。自分自身の大学生のときを振り返ってもそんなものだったかもしれない。ただ、高校のときに教科書以外のものから何かを学び取ろうとした経験はあるが。

 で、教育原理の講義を始めた。わがQ大時代の同僚土戸敏彦氏の名文をまずは使わせてもらっている。そのテキストは「人間-この特異な存在」というもの。新谷・土戸編『人間形成の基礎と展開』(コレール社 1999)の第1章だ。つまり教育原理のテキストの最初の部分である。

 読み進めながら解説をし、問いを書いたワークシートにその都度何かを埋めていくという形式だ。なんとなく国語の問題を解いているような気にさせてしまったのかもしれない。実際、「今日の内容はほとんど国語だった」と書いてきた学生もいたくらいだ。尤も、その学生は「自分の考えを書く」のと「作者の意図を推測する」のとどっちが大切かと問うてきていたので、「たいせつなのはあなたが「人間と教育」について考えを深めることです。答えは作者とちがってもかまいません」と返しておいた。

 で、2頁目の以下の文章を読んで、〔人間と類人猿のちがいは何だろうか〕という問いを発し、ワークシートに書かせた。

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 人間とゴリラやチンパンジーのような類人猿とのあいだに,決定的な差異は存在するのだろうか。たとえば,性に関して人間特有の現象が指摘される。性欲が恒常的に存在し,生殖に関係のない同性愛のような性行動が見られるというようなことである。ところが,ボノボ(ピグミーチンパンジー)においては,限定された発情期はほぼ消滅し,人間以上にセックスの回数は頻繁らしい。ゴリラには,歴とした同性愛の現象が見られるという。してみると,類人猿とヒトとの境界は必ずしも決定的でないかもしれないのである。だがそれにもかかわらず,決定的な特異性が人間にはあるのではないか。すなわち,みずからの存在基盤を蝕み,生命そのもののの存在を否定するような行為は,唯一人間だけのものではなかろうか。

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 そうしたら、圧倒的に多かったのが、「みずからの存在基盤を蝕み,生命そのものの存在を否定するような行為」という〈答え〉であり、「人間は、性欲が恒常的に存在し、生殖に関係のない同性愛などの性行動が見られるのに対して、類人猿は限定された発情期はほぼ消滅する。」とか、「人間は性欲が恒常的に存在する。しかし、ボノボ(チンパンジー)は、限定された発情期はほぼ消滅するちがい。」といった〈答え〉である。明らかにテキストの中から抜き取った文である。それを書き込めば国語的には正解となると思ったのかもしれない。

 しかし、これは国語的にもまちがっていたのである。人間の「恒常的に性欲が存在する」という特徴と類人猿の「限定された発情期はほぼ消滅」しているということはほぼ同じことなのだが、これをちがいと認識しているのだ。

 つまり、この人間に関する文章を理解しようともしていないし、その見解に対して自分の意見をぶつけようとも、人間について考えを深めようともしていないわけだ。要は答えをみつけてワークシートに書き込もうとしたのだろう。「みずからの存在基盤を蝕み,生命そのものの存在を否定するような行為」という一節が具体的に自分のみのまわりのこととしてどんなことを意味しているかを挙げてもらいたいし、それをワークシートに書いてもらいたかった。

 他の質問項目についても、同様の抜き書きが大多数であったと言っていい。それは何を意味するか。学生諸君の所為ではない。まずは高等学校までの教科指導に問題があるのではないかと思う。それは国語科に限らない。社会科や理科、その他の教科全般に言えることではないだろうか。新井紀子氏が「教科書が読めない高校生」の存在を提起したことはこういうことであった。そしてその帰結は国民形成に影響を与えているのかもしれない。

 自分で悩むことなく、誰かのアジテーションめいた言葉をネット上で叩きつけることで、いっぱしの理論家になったつもりでいる人が増えているようだし、実際そのような国会議員をはじめそこそこの社会的存在感のある人間も出てきている。それは政治的価値観の左右にには関係ないと言える。

 もともと「左」側には、党の機関紙の記事から抜き取ったことをそのまま垂れ流すように語る人間は多かった。僕自身も初めてハンドマイクを握ってアジテーションをしたとき、それなりにこなすことができたのはそういうことだったのだと思う。今はとてもじゃないがアジテーションのようには語れない。その類いが「右」側にも登場してきたということだろう。

 問題は誰も彼もがそのような借用発言ばかりになってきているということの怖さである。そのような国民形成が行われているのが怖いのである。フレイレ流に言うならば、かつての国民大衆は言葉を持たなかった。まさに抑圧されていた時代にはそうであったのだろう。それが時代の流れの中で国民に声を出させず、思考をさせず、あらぬところへ連れて行ってしまった。

 戦後国民は言葉を持った。いや持たされたのかもしれない。しかし、その言葉は教育の中で形骸化されていったのだろう。フレイレの言う銀行型の教育システムの中でだ。現在の教育改革は「主体的対話的で深い学び」をめざしているようだ。しかし、それは「主体的対話的で深い学び」を銀行型の対話の成立しない教育システムの中でやろうとしている。なのでたぶん無理だろうと思う。

 なるほど元兇の入試にも文科省は手をつけているが、所詮は現場の受験対策がそうした改革を陳腐化させていくにちがいない。ちがいないのだけれども、国民教育の場となっている大学教育だからこそその流れを止めなくてはならない。

 まずは「これは国語ではない、哲学だ」というところから次回の講義を始めたい。



 


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