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執筆者の写真新谷 恭明

研究を職業にするということ

 研究という世界で長いこと働いてきた。現在の大学に移って、教育に比重のかかる仕事となったが、前の大学で研究指導を主とした仕事をしてきたので、時々研究会に誘われたり、学会に参加したりすると、研究を生業とすることの意味を逆によく考えるようになった。研究者としてはたいした仕事はしていないという自負(!)はあるし、その資質もたいしたものではないという謙虚さも持っている。おそらく若い研究者志望の人たちの中には僕よりもはるかに有能な素材はたくさんあると感じてもいる。

 そうではあるが、研究という仕事は、殊に人文・社会科学系の研究というのは人間、ていうか人類を対象にするものであるから、研究の持つ責任性については理系とは質の異なる重さがある。しかし、紙の上だけで業績が作られ、消費されていくので、研究成果というものは可視化されにくい。理系でも数学や理論××学のような紙の上でできあがる研究もあるが、それらも将来的に何らかの具体的なモノに反映していくという意味において成果は可視化しやすいものである。

 それに比して、いわゆる文系の研究は紙の中だけで完結してしまうものだと思いがちで、そのために多少まちがいがあろうが、多少不具合があろうが、なんとか紙の数を増やしていけばそれでいいと勘違いしている研究者もその卵も、はたまた学生も多いような気がしている。まさしくこのように「気がしている」というような非科学的な文章を挿入しても赦されると考えている人もいるようだ

 他人にとやかく言う以前に僕自身も非意図的・意図的にそのような表現を使うこともある。もちろんそれは表現する場によるものではあるが(この一文は予防線)。

 僕のやって来たのは日本教育史という学問で、方法的には歴史研究になる。教育という分野を対象に歴史研究を行うのであるから、教育学の一部でもある。それゆえに教育に対する問題意識も必要である。そこは政治史や文化史の人が教育を対象とする場合と微妙にやり方は異なってくるのかもしれない。ま、そのことはいい。まっとうな研究者ならば互いにリスペクトできる範囲のことだろうからだ。

 問題はなぜそのことを研究するのか、ということだ。○○史研究とそれぞれの領域を看板にあげる研究者はみなそれぞれの○○に対する強い問題意識を持っているはずである。

〈なぜその研究をするのか〉

ということである。

 歴史修正主義者という人たちがいる。この人たちは自分たちにとって不都合なこと、つまり、南京事件や、関東大震災のときの朝鮮人虐殺などを無かったことにしたいという人たちだ。極端なものとしては「ホロコーストは無かった」という記事を載せた文藝春秋社の雑誌『マルコ・ポーロ』が世の中の批判を浴びて廃刊となった事件がある。そのような歴史修正主義者の狙いは史実を自分たちに都合よく手直しをして、正当化する材料に使おうというものである。先に挙げたのは日本やナチスの戦争犯罪を否定し、よい国、よい政党であったことにしたいという目的を持っている。もしくは朝鮮人という民族の存在を否定したいという願望(その裏返しとして、日本人は優秀だとしたい願望)を歴史を枉げてかなえたいという狙いがある。その意味で歴史修正主義者は自分に都合のいい歴史を作りたいという目的を明確に持っている。

 今あげたのは、右派の人たちであるが、同様のことは左派にもあるし、あった。大正新教育は反権力的教育であったとか、明治6年の新政反対一揆で被差別部落を襲ったのは士族だとかいうものである。自由民権運動が後の左翼運動と同質のものであるかのような記述をしているものもしばしば拝見したことがある。日本国憲法制定のときに反対した日本共産党が今はそのことを隠して護憲派の顔をしているのも歴史修正主義ととられかねない。きちんと国民大衆に対して総括した上で政党活動をすべきだろう。

 ところで話を戻すと、研究者に研究対象に対する問題意識がないと歴史修正主義に取り込まれる可能性があることを警告しておきたいのでこのことを書いた。問題意識というのは諸刃の剣である。問題意識が過剰であると自説に都合のよい解釈に史実を引っ張ってきてしまいがちである。しかし、問題意識が希薄であると、歴史修正主義に陥る可能性が出てくる。歴史修正主義はいわゆる定説を覆すことで自分を正当化する手法である。「実はそうだった」みたいな表現の仕方にはある種の魅力があるからだ。

 必要なのは常に自身の価値観を含めて疑えることだ。よくゴルゴ13に喩えて「自分を第三者の眼で見る」ように心がけよ、と言うのだが、ゴルゴ13も高齢者となってしまい、若い人に対する説得力を持たなくなっているのかもしれない。

 もう一つ、歴史は生身の人間の行為の積み重ねである。生身の人間がどういう思考をし、判断をするのか。限られた史料の中からそれを推測していかねばならない。同時に史料そのものの限界も知っておくべきであろう。史料はどのように作成されたものであり、その史料が語っている真実は何なのだろう、というところに思いをいたす想像力は大事である。しかも、歴史を作ってきた人たちは過去の人間である。過去の人間は現在とは異なる行動様式、思考様式を持っている。それはその時代に身を置いて考えられるかという一点にかかる。そのために時代の空気を史料や文献の中から汲み取っていく習慣を身につけることは歴史研究者にとってはとても大切なことである。


 


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